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毎度のことですが,とりあえず最初に書いておくと,これは実用的な材料の発見とかそういう論文ではありません.新しい現象の報告が主で,「こういう手法をうまく発展させると,将来的には○○とかに使えるかもよ?」というのも一応言っておく,という感じです.
身の回りの磁気記録(HDDであるとか,MRAMであるとか)においては,強磁性体(いわゆる磁石)の磁化の方向(N極の向き)を使って情報を記録しています.そのため,情報を書き換えるには磁化の向きを反転させる必要が出てくるのですが,これにはある程度大きい磁場をかけなくてはいけません.この,「磁化を反転させるのに必要な磁場の強さ」を保磁力と呼びます.例えば市販されている磁石などは保磁力が大きく(他の磁石を近づけても,磁化の向きはそうそう変わらない),鉄などは保磁力が非常に小さくなっています(別の磁石を近づけると,磁化の方向が簡単に変わる).
さて,磁気記録を考えると,二つの対立する要求がある事がわかります.記録の安定性を考えるなら,熱(物事をごちゃ混ぜにする)や外部磁場で磁化の方向が勝手にひっくり返っては困りますので,高い保磁力が必要です.ところがデータの書き換えを考えると,今度は保磁力が高すぎると書き換えに必要な磁場が非常に大きくなり,それだけの磁場を発生させるためのコイルや配線が大型化してしまいます.
この相反する要求を解決するのに有効な手段の一つが,書き込む時だけ温度を上げるという手法です.今研究されているHDDの熱アシスト技術や,懐かしのMOの記録に利用されている手法です.磁石には,「この温度以下だと,相互作用が熱揺らぎに打ち勝って磁石になる」という転移温度であるキュリー温度が存在します.そして,保磁力は通常キュリー点より温度が下がるに従い大きくなり,ある値に漸近していきます.逆に言えば,保磁力が強くてデータの保存性が高い物質であっても,温度をキュリー点近くやそれ以上にまで上げれば容易に書き換えられる,という事になります.
ただし,通常の物質の場合,温度上昇による保磁力の減少は非常に緩やかです.そのため高保磁力の材料を加熱して書き換えやすくするにはかなりの高温にまで加熱する必要があり,利用がなかなか難しい,という欠点がありました.今回報告されているのは,「二層構造をうまく使うと,ある温度域で非常に保磁力が大きく,そしてそこを過ぎると急激に保磁力が減少する(=ちょっとの加熱で書き換えが劇的に容易になる)材料が作れるよ」というものです.
今回報告されたのは,V2O3上に蒸着したNi薄膜の磁性です.V2O3は古くから知られた物質で,170 K前後で構造転移を起こすことが知られています(今回の話とは関係しませんが,強相関物質の代表例で,この構造転移に伴い金属-絶縁体転移を起こします).こいつにNiを蒸着すると,構造転移に伴い伸び縮みが発生するので,上のNi膜を歪める力が働きます.#この手の基板の歪みで上のものの物性を制御しようというのは,表面物理の王道.
このNi/V2O3の保磁力を測定しながら温度を変化させていくと,面白いことが起こります.V2O3の構造転移温度から十分離れた低温相(やや保磁力が高い)から高温相(やや保磁力が低い)に温度を上げていく途中で,V2O3の構造転移が始まると保磁力が急速に増大し,V2O3中で高温側の構造と低温側の構造が完全にごちゃ混ぜになっている(=両方の構造がモザイク状に乱雑にごちゃ混ぜになっている)温度で保磁力は最大値をとり,そこからV2O3の高温相の比率が高くなるに従い保磁力が急減する,という挙動が見られたのです.単純に言えば,「基板であるV2O3が構造転移の途中にある時だけ保磁力が馬鹿でかくなる」という現象です.もしこの「構造転移の途中」と言うのが室温ぐらいである材料を作れれば,「室温付近では高保磁力でデータをしっかり保持,ちょっと加熱すると急速に保磁力が低下して簡単に書き換えられる」というのも可能になるかもね,と.
では何故こんな現象が起きるのか?と言う点に関しては,著者らは構造転移に伴う歪みが,強磁性体部分の磁壁のピン留めをしているからではないか?と指摘しています.強磁性体で,ある部分を境に磁化の向き(N極の方向)が変わっている事は良くあり,このような部分を磁壁(相の境界面:ドメインウォール)と呼びます.例えば1次元に並んだ例で言えば,↑↑↑↑↑↑↓↓↓↓と各部位の磁化の向きがなっていて,その反転している部分のようなものです.#この図では反転部分に厚みがないように書いてあるが,実際には数原子分の間で徐々に向きがねじれていく.
強磁性体に外部磁場をかけて磁化の向きを反転させる時には,この磁壁の位置が徐々にずれていってスピンの向きが揃っていきます(そうなることが多い).磁場をかけることで以下の図のように変化していきます.
(1)↑↑↑↑↑↑↓↓↓↓
(2)↑↑↑↑↓↓↓↓↓↓
(3)↑↓↓↓↓↓↓↓↓↓
ところがこの磁壁,結晶中に欠陥があるとそこにトラップされ,移動しにくくなります.ドメインウォールはエネルギーが高いのですが,格子欠陥(もともと歪んでいたりして,スピンの向きがねじれていてもあまりエネルギーが変わらない)の場所に押し込むと,両者が別々に存在しているよりはエネルギーが低くなるためです.さて,話をNi/V2O3に戻します.こいつは170 K付近になると,下層のV2O3が構造転移を起こし,結晶構造がモザイク状になります.すると上の層のNiにも乱雑な構造歪みが生じ,欠陥(のようなもの)が多数発生することとなります.するとこの「欠陥」が強磁性のドメインウォールをトラップし,強磁性体の磁化の反転が起こりにくくなります(=保磁力が高い).温度が上昇するとV2O3は高温相へと完全に転移して均一な構造になるので,上の層のNiの歪みも解消します.するとまた強磁性のドメインウォールが移動しやすくなり,磁化の反転が起こりやすくなる(=保磁力が下がる),と.
単一系での構造の歪みとドメインウォールのトラップはちょくちょくあるんで,それを二層系(で,片側は温度変化での構造転移に伴う歪みの発生源,一方は強磁性体)に適用した感じですかね.
リンク先によると、マイナス88℃~マイナス123℃あたりで変化(ピークがマイナス108℃あたり)
保存温度領域で保磁力の高い状態でないと、今のままではちょっと大変?
素になったV2O3の性質によるようなので、そちらを主にいじるのかな
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ソースを見ろ -- ある4桁UID
内容まとめ(いつものごとくかなり長文) (スコア:5, 参考になる)
毎度のことですが,とりあえず最初に書いておくと,これは実用的な材料の発見とかそういう論文ではありません.新しい現象の報告が主で,「こういう手法をうまく発展させると,将来的には○○とかに使えるかもよ?」というのも一応言っておく,という感じです.
身の回りの磁気記録(HDDであるとか,MRAMであるとか)においては,強磁性体(いわゆる磁石)の磁化の方向(N極の向き)を使って情報を記録しています.
そのため,情報を書き換えるには磁化の向きを反転させる必要が出てくるのですが,これにはある程度大きい磁場をかけなくてはいけません.この,「磁化を反転させるのに必要な磁場の強さ」を保磁力と呼びます.
例えば市販されている磁石などは保磁力が大きく(他の磁石を近づけても,磁化の向きはそうそう変わらない),鉄などは保磁力が非常に小さくなっています(別の磁石を近づけると,磁化の方向が簡単に変わる).
さて,磁気記録を考えると,二つの対立する要求がある事がわかります.記録の安定性を考えるなら,熱(物事をごちゃ混ぜにする)や外部磁場で磁化の方向が勝手にひっくり返っては困りますので,高い保磁力が必要です.ところがデータの書き換えを考えると,今度は保磁力が高すぎると書き換えに必要な磁場が非常に大きくなり,それだけの磁場を発生させるためのコイルや配線が大型化してしまいます.
この相反する要求を解決するのに有効な手段の一つが,書き込む時だけ温度を上げるという手法です.今研究されているHDDの熱アシスト技術や,懐かしのMOの記録に利用されている手法です.
磁石には,「この温度以下だと,相互作用が熱揺らぎに打ち勝って磁石になる」という転移温度であるキュリー温度が存在します.そして,保磁力は通常キュリー点より温度が下がるに従い大きくなり,ある値に漸近していきます.逆に言えば,保磁力が強くてデータの保存性が高い物質であっても,温度をキュリー点近くやそれ以上にまで上げれば容易に書き換えられる,という事になります.
ただし,通常の物質の場合,温度上昇による保磁力の減少は非常に緩やかです.そのため高保磁力の材料を加熱して書き換えやすくするにはかなりの高温にまで加熱する必要があり,利用がなかなか難しい,という欠点がありました.
今回報告されているのは,「二層構造をうまく使うと,ある温度域で非常に保磁力が大きく,そしてそこを過ぎると急激に保磁力が減少する(=ちょっとの加熱で書き換えが劇的に容易になる)材料が作れるよ」というものです.
今回報告されたのは,V2O3上に蒸着したNi薄膜の磁性です.
V2O3は古くから知られた物質で,170 K前後で構造転移を起こすことが知られています(今回の話とは関係しませんが,強相関物質の代表例で,この構造転移に伴い金属-絶縁体転移を起こします).
こいつにNiを蒸着すると,構造転移に伴い伸び縮みが発生するので,上のNi膜を歪める力が働きます.
#この手の基板の歪みで上のものの物性を制御しようというのは,表面物理の王道.
このNi/V2O3の保磁力を測定しながら温度を変化させていくと,面白いことが起こります.V2O3の構造転移温度から十分離れた低温相(やや保磁力が高い)から高温相(やや保磁力が低い)に温度を上げていく途中で,V2O3の構造転移が始まると保磁力が急速に増大し,V2O3中で高温側の構造と低温側の構造が完全にごちゃ混ぜになっている(=両方の構造がモザイク状に乱雑にごちゃ混ぜになっている)温度で保磁力は最大値をとり,そこからV2O3の高温相の比率が高くなるに従い保磁力が急減する,という挙動が見られたのです.
単純に言えば,「基板であるV2O3が構造転移の途中にある時だけ保磁力が馬鹿でかくなる」という現象です.もしこの「構造転移の途中」と言うのが室温ぐらいである材料を作れれば,「室温付近では高保磁力でデータをしっかり保持,ちょっと加熱すると急速に保磁力が低下して簡単に書き換えられる」というのも可能になるかもね,と.
では何故こんな現象が起きるのか?と言う点に関しては,著者らは構造転移に伴う歪みが,強磁性体部分の磁壁のピン留めをしているからではないか?と指摘しています.
強磁性体で,ある部分を境に磁化の向き(N極の方向)が変わっている事は良くあり,このような部分を磁壁(相の境界面:ドメインウォール)と呼びます.例えば1次元に並んだ例で言えば,
↑↑↑↑↑↑↓↓↓↓
と各部位の磁化の向きがなっていて,その反転している部分のようなものです.
#この図では反転部分に厚みがないように書いてあるが,実際には数原子分の間で徐々に向きがねじれていく.
強磁性体に外部磁場をかけて磁化の向きを反転させる時には,この磁壁の位置が徐々にずれていってスピンの向きが揃っていきます(そうなることが多い).磁場をかけることで以下の図のように変化していきます.
(1)↑↑↑↑↑↑↓↓↓↓
(2)↑↑↑↑↓↓↓↓↓↓
(3)↑↓↓↓↓↓↓↓↓↓
ところがこの磁壁,結晶中に欠陥があるとそこにトラップされ,移動しにくくなります.ドメインウォールはエネルギーが高いのですが,格子欠陥(もともと歪んでいたりして,スピンの向きがねじれていてもあまりエネルギーが変わらない)の場所に押し込むと,両者が別々に存在しているよりはエネルギーが低くなるためです.
さて,話をNi/V2O3に戻します.こいつは170 K付近になると,下層のV2O3が構造転移を起こし,結晶構造がモザイク状になります.すると上の層のNiにも乱雑な構造歪みが生じ,欠陥(のようなもの)が多数発生することとなります.するとこの「欠陥」が強磁性のドメインウォールをトラップし,強磁性体の磁化の反転が起こりにくくなります(=保磁力が高い).
温度が上昇するとV2O3は高温相へと完全に転移して均一な構造になるので,上の層のNiの歪みも解消します.するとまた強磁性のドメインウォールが移動しやすくなり,磁化の反転が起こりやすくなる(=保磁力が下がる),と.
単一系での構造の歪みとドメインウォールのトラップはちょくちょくあるんで,それを二層系(で,片側は温度変化での構造転移に伴う歪みの発生源,一方は強磁性体)に適用した感じですかね.
そのままでは使えない? (スコア:2)
リンク先によると、マイナス88℃~マイナス123℃あたりで変化(ピークがマイナス108℃あたり)
保存温度領域で保磁力の高い状態でないと、今のままではちょっと大変?
素になったV2O3の性質によるようなので、
そちらを主にいじるのかな